カラチの人口は、直近150年間で劇的に変貌を遂げた。非公式ではカラチの人口は2000万人に到達したとされる[28] 。1947年でのカラチの人口は40万人程度であった。カラチの人口は年率5%の増加を続けており、この増加数には、パキスタン各地からカラチへ出稼ぎとして働きに出てきている労働者の数も含んでいる[29]。
カラチの歴史と関連するが、1947年以前のカラチには、パールシー、ユダヤ人、ヒンドゥー、キリスト教徒、バローチ人、グジャラート人(en:Gujarati people)とシンド人が居住していた。しかし、パキスタンの分離独立により、多くのヒンドゥーがカラチを離れ、それに変わる形でインドから多くのウルドゥー語話者ムスリムが移住した。彼らをムハージルと呼ぶ。ムハージルは、インド各地からカラチへやってきたため、それぞれの故郷の文化、料理をもたらした。現在ではムハージルの存在がカラチのコスモポリタン性に彩を添えている。
一方で、ムハージルと土着のシンド人との関係は良好とは言えず、しばしば衝突が起こっている。カラチはシンド州に属する都市だが、1960年代の推計ではカラチ人口におけるシンド人の割合は20%にすぎず、人口の6割以上はムハージルが占めていたとされる[30]。1960年代からシンド人の民族主義が高揚する一方、それに対抗する形で1970年代からムハージルの地位向上を目指す民族運動が盛んになり、1984年にはカラチでムハージルの民族政党であるムハージル民族運動(Muhajir Quami Movement 、MQM)がアルターフ・フセインによって結成された[31]。ムハージル民族運動はカラチを地盤として勢力を伸ばしたが、1992年には2派に分裂し、1997年にはアルターフ・フセイン派が党名を統一民族運動(Muttahida Qaumi Movement、MQM)と変更した。
1979年、ソ連によるアフガニスタン侵攻が勃発した。この侵攻を契機に多くのアフガン難民がカラチにも殺到した[32]。彼らはカラチに定住し、その人口は100万人以上と推計される。また、アフガニスタンからの難民は様々な民族から構成されている。具体的には、パシュトゥーン人、タジク人、ハザーラ人、ウズベク人、トルクメン人である。
カラチには、それ以外にも多くの民族が居住している。例えば、アラブ人、イラン人、フィリピン人、ミャンマーの軍事政権下から逃れてきたロヒンギャ人、ボスニア人、アルバニア人、ポーランド人、レバノン人、アルメニア人、ベンガル人であり、また、アフリカから移住してきた人々も居住している。
宗教的にはイスラム教徒が圧倒的に多く、1998年の国勢調査では、カラチ市民の96.45%がイスラム教徒であり、ついでキリスト教(2.42%)、ヒンドゥー教(0.86%)、アフマディーヤ(0.17%)、その他宗教(バハーイー教、シーク教、ゾロアスター教、ユダヤ教、仏教)が0.10%となっている[33]。
言語的には、1998年の国勢調査ではウルドゥー語人口が62.52%で過半数を占め、ついでパンジャブ語13.94%、シンド語7.22%、パシュトゥーン語5.42%、バローチー語4.34%、サライキ語2.11%、その他12.4%となっている。その他言語の話者にはグジャラート語、ペルシア語、アラビア語、ベンガル語、コワール語、ブルシャスキー語、ブラーフーイー語などがある[34]。
参照:Wikipedia「カラチ」
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参照:Wikipedia「カラチ」
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カラチには1951年に設立された市街東部のカラチ大学をはじめ、いくつかの大学がある。また、パキスタン国立博物館がバーンズ・ガーデンにある。
カラチにはパキスタンで最も古い英字紙である「ドーン」紙やパキスタン建国以前に創刊されたおおてウルドゥー語紙である「ジャング」紙など、多くの新聞社が存在している[37]。
カラチで最も人気のあるスポーツはクリケットであり、市内中心部に位置する国立競技場は、カラチ唯一の世界レベルのクリケットスタジアムであり、パキスタン国内でもラホールのガダフィ・スタジアムに次いで2番目に大きな競技場である。
参照:Wikipedia「カラチ」
参照:Wikipedia「カラチ」
○航空便
カラチの空港としては、市街の東部に位置するジンナー国際空港(カーイデ・アーザム国際空港)がある。パキスタンのフラッグキャリアであるパキスタン国際航空はカラチに本社を置き、ジンナー国際空港をハブ空港としている。「対テロ戦争」において、アメリカ合衆国およびその同盟軍は、この空港を戦略的兵站拠点として用いている。パキスタン国際航空が成田国際空港から週2便の北京首都国際空港、ベナジル・ブット国際空港経由便を運航している。1970年代初頭までは南回りヨーロッパ線の主要経由空港としてアジアとヨーロッパを結ぶ世界の重要空港であった。 このほか、町から離れた場所に2ヶ所の飛行場がある。
○海運
カラチ港はパキスタン最大の港であり、パキスタン建国以後は国内唯一の輸出港として重要性を増した。カラチ港の混雑を緩和するため、1970年代末にはカラチ港の東35km、カラチ市域の東端にカシム港が開港し、パキスタン第2の港となった。この両港ともにカラチ市に属するため、カラチにパキスタンの海運のほとんどが集中している状況には変わりない。
カラチ港については定期旅客航路はない。しかし近場の島、パキスタン風ビーチにアクセスする近距離船は、日中ならば複数航行している。
○鉄道
カラチは鉄道により、国内の他の地域と結ばれている。カラチ・シティ(Karachi City)とカラチ・カントンメント(Karachi Cantonment)の二つが主要な駅である。特に、カラチ・カントンメント駅は、市中心街の南に位置し、パキスタン国鉄一のハブ駅で、ここからパキスタン各地の主要都市へ、毎日列車が発着する。また、全長44kmの環状線があるが、朝夕の限られた時間に限られた本数しか走行していないため、実用性は低い。この環状線を活性化させ、近代的な大量輸送システムに変換する計画がパキスタン政府によって承認された。このプロジェクトの総工費は1600億円であり[35]、日本政府の政府開発援助によって2013年度に完成予定である[36]。
○キンキラバス
現在、カラチにおける主な大量輸送機関はきらびやかに装飾された、その名も「キンキラバス」である。この名は現地の日本人による通称であり、現地人は「マツダ」と呼んでいる。これは、マツダのバスをベースに改造されたもののためである。約1万台のキンキラバスがあるが、それをもってしてもラッシュ時の輸送量をさばききれていない。中でも、カラチ中心部のサダル地区「エンプレスマーケット」前のキンキラバス渋滞は凄まじい。
参照:Wikipedia「カラチ」
参照:Wikipedia「カラチ」